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    随筆家青木雨彦さん宅訪問 ハマ浜新聞編集長取材記

    随筆家青木雨彦さん宅訪問 その1

    横浜は本当に坂が多い。

     「ハマ浜新聞」夏号の記事「三日住めばハマっ子」

    を読んで頂いた青木雨彦さんの奥様。
    横浜を愛した故雨彦さんのお話しを伺いに
    保土ヶ谷の坂を登った。

    随筆家青木雨彦さん宅訪問 その2

    17年前亡くなられるが
    書斎はそのままに。。。

    青木雨彦さんの一日について聞いてみた。

    随筆家青木雨彦さん宅訪問 その3

    朝6時に起床、新聞8種類を読み。
    サイホンで珈琲を引く、その時、
    今日書く原稿の書き出しを考えるそうで

    話しかけててはいけなかったと、奥様は語ります。

    コラムのネタは
    約10紙の新聞から。
    「ハマには浜を」の事、

    昔、本牧から桜木町まで見渡せる長い砂浜があって
    「横浜」というそうです。
    今は砂浜がひとつしかない。などお話しすると

    「主人もきっと参加したでしょう。」

    と言ってくださいました。
    とても明るく楽しんでお話ししてくださいました。
    とりあえず、お話しを聞けて良かった。

    再度、記事を書いた石橋さんと取材をお願いしたいと
    約束をかわし 玄関に飾ってある村上豊さんの絵に感動しつつ
    また 坂を下って行きました。
    ハマ浜新聞編集長 伊藤久美子

    【編集部追記】

    世の中繋がっているとか、世間は狭いなどと言われます。

    まさか、青木雨彦さんの引用から、記事を自分が書いたことが
    きっかけにご家族、それも奥様と繋がるとはびっくりです。
    伊藤編集長の人脈の恐ろしさもありますが(^_^;

    個人的にですが、まぁ、何とも不思議な感じを得ています。

    世の中、繋がっている・・・

    環境問題でもそうですが、一見全然違う地球のどこかの歪みが
    現れてくる恐ろしさ・・・

    世代間での交流が少ない今・・・

    おもいをつなげて、砂浜を再生させる活動は、
    さまざまな他の問題へのアプローチのきっかけにもなります。
    みな繋がっているのだから・・・

    そういうハマ浜の活動を目指すと、改めて思う出来事でした。

    実行委員会 石橋

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    エキゾチック横浜  池波正太郎の歩いた横浜

    小学校の五年生のころだったとおもう。
    長らく東京に住んでいた母方の親類が横浜の
    磯子へ転居したので、祖母が、

    「荷物をもって、ついて来ておくれな。五十銭あげるよ」

    といったので、むろん、ついて行った。

    上野駅から桜木町駅までの道程は、
    とても高田の馬場どころではない。

    学校の遠足は別として、私にとっては、
    初めての大旅行だった。

    電車の窓から海が見え、汽船が見え、
    さまざまなクレーンが見えた。

    桜木町から乗り換えた市電で磯子へ行くまでの間、
    海はもっと近くにせまってきた。

    中略

    それから何度も出かけた。

    しだいに深入りをして、
    ホテル・ニュー・グランドへ泊まり、朝から夜まで
    港を歩きまわり、少しも飽きなかった。

    そのころの横浜のエキゾチシズムを何と語ったらよいだろう。

    「散歩のとき
     何か食べたくなって」

          池波正太郎 新潮文庫

    からの抜粋です。
    磯子までの市電への道程が、海がせまってくる・・・
    う~ん、、、素敵です。

    今では想像も付きません。
    当時の弁天通や山下通の素敵な雰囲気も書かれています。
    まるで、どこか別街のような(^_^;

    何かが始まる、そう、素敵な何かが始まりそうな予感

    流れる時を積み重ねても、どんな世代にとっても、
    そんな街で、いつまでもあって欲しいなぁ、、、横浜。

    そうそう、今でもとっても変わらないと思った文をご紹介。

    当時の横浜の人びとは、明治以来の開港時の人情と、
    きっぱりとした気性が濃厚に残っていて、ことに若い
    女たちの明るい、奔放ともいえる言動と人懐っこさが
    私を驚かせた。
    それは東京の女たちにはない、一種、特別なものだっ
    たようである。

    いや全く!と思いますよ、今現在の横浜も。
    唯一訂正させていただけるなら、「ことに若い」という部分。
    横浜の女性の皆様は、今もなお

    人情ときっぱり!そして明るく、しゃっきりした言動、
    人懐っこさは素敵ですよ!

    と池波正太郎さんも思うことでしょう(^_^)
    だって、ハマには浜を そんな女性の方々にたくさん
    助けて、励まされて頂いています。

    青木雨彦さんの例の洒落た言い方をすれば、
    池波正太郎さんも十二分に「ハマっこ」ですね(^_^)

    実行委員会 石橋

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    「海辺の情景」 広島県福山市 鞆の浦(とものうら)

    鞆の浦 その3 広島県福山市

    鞆の浦 その1 広島県福山市

    輸送手段を船に頼っていた時代から
    この港は「汐待ちの港」として栄えていた

    とくにここから西の島々(現在では、しまなみ街道)
    は瀬戸内海の難所として恐れられていたらしい

    瀬戸内の潮差は大きい、時には地響きをたてて流れることも、しばしばで、
    昔の木造船などで流されたら、ひとたまりもなかったであろうことは想像がつく

    鞆の浦 その2 広島県福山市

    そこで、ほどよい潮の流れを待つための停泊港が
    この 鞆港 だったのである

    今 この歴史ある港が微妙な立場にたたされている
    景観保護か地元生活優先か

    鞆の浦 その4 広島県福山市

    景観保護を優先した場合、緊急車両等の通行が不便なままとなり
    地元生活優先となった場合、とうぜん景観は変わってしまう

    難しい選択だ・・・

    ハマ浜特派員 三東寛

    【編集部追記】
    ウィッキペディア フリー百科事典
    「鞆の浦」
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9E%86%E3%81%AE%E6%B5%A6

    自然と生活の狭間・・・
    三東さんが指摘している開発に関して、ウィキペディアの
    「鞆の浦」の項目に説明がありますので、ご覧頂くと状況が出ています。
    上記、URLで見ることが出来ます。

    環境問題は、どちらかというと人間の欲の部分とのジレンマを
    感じますが、この場合、欲というよりは生活に密着している分、
    更に、問題を難しいなぁ、、、と感じました。

    どういう選択を取るにせよ、その結果は、今後、他の地域での
    まちづくりにとって重要なケースとなりうると感じます。

    私たち横浜にとっても、その結果を十分に生かすことが大切だと感じました。

    実行委員会 石橋

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    象の鼻 タマちゃんの定点観測日記 その7

    象の鼻 定点観測

    スッキリと平らになりました。
    日曜日以外、毎日ユンボのうなり音が部屋に入って来ています。

    ハマ浜特派員タマちゃん

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    山下公園 横浜の日常 特派員情報

    山下公園にて

    ブルーライトという名のバラ 向こうは氷川丸

    ハマ浜特派員 sato

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    鶴見川水系、その文化圏と交通

    陸の話をしたので、今度は水辺・・・の話をちょっとだけ。

    その昔鶴見川は、今で言うハイウェーにあたる重要な
    交通路でした。
    当然そうなると水域周辺地域に文化が育まれます。

    最も奥と考えられるのが、
    都筑郡衙(ぐんが)と考えられている

    ・長者原遺跡
    ・稲荷前・市が尾古墳群

    があります。
    市が尾と聞くと意外と内陸だなぁ、、、と感じるかも
    しれませんが、東京電力のトゥイニー塔から見ると案外海に近いです。

    鶴見川水系を特徴づける神社として
    「続日本後紀」「延喜式」神名帳に名が載る
    市域唯一の式内社の杉山神社

    お城では、水系に面して

    茅ヶ崎城
    小机城
    榎下城などなど

    城址が残っています。

    更に、弥生時代の古墳などあります。

    こうして考えると、横浜という地名で捕らえず
    地域で捕らえると、実はず~と歴史のある地域である
    とも考えられますね。

    実行委員会 石橋

    実は、歴史は苦手なんですよ(^_^;
    近々、江戸の歴史と言えば、この人!という
    知人に特派員をお願いしようと思ってますので、
    お楽しみに!

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    横浜の文字が始めて登場したのは・・・

    その昔、横浜市域を、

    武蔵の国
    相模の国

    と古道の武相国境道で分けることが出来ます。

    武蔵の国は、都築郡、橘樹郡、久良木郡、
    相模の国は、鎌倉郡

    で構成されていました

    現在の横浜は、環状線の整備を進め、各区の
    往来がかなり便利になってきています。

    都市の発展には、ローマ街道などに代表されるよう
    道路が整備されることは重要です。
    また、水辺にあたる水域、港も重要です。

    横浜に目を移してみますと、

    矢倉沢往還
    中原街道
    東海道

    が横浜市域を貫くように整備され、その中の東海道は
    神奈川宿、保土ヶ谷宿、戸塚宿と3つの宿場が発展します。

    また、起点が八王子という

    八王子街道

    は、終点の神奈川湊へのびています。
    古道として、都市を結んでいたのにはいろいろな意味が
    あったのでしょう。

    近年の神奈川湊の発展、小麦などを現在の千葉へ
    神奈川湊から運び、味噌や醤油の原料としていた
    とされますので、八王子、神奈川、千葉と結ぶ、陸、
    海運の一本道をイメージできます。

    横浜村という名称が、今現在発見されている文献で
    最初に登場するのは、

    応仁の乱から20年ほど前、1442年

    室町時代のことです。

    横浜を含んだ久良木郡一帯は平子郷と呼ばれ、
    平子氏が支配している地域とされていました。

    この領主平子氏の石河法生寺へ宛てた薬師堂免田鼻の
    寄進状に「横浜」の文字が登場し、初めてとされています。

    実は横浜、お寺など、意外と古い歴史もたくさんあったりします。

    本日はこの辺で、、、、

    実行委員会 石橋

    追伸
    伊藤編集長のご自宅付近を、武相国境道が横切ってますよ(^_^;
    みなさんの住んでいる、すぐそばに古道が眠っていたり、走って
    いたり、まだ発見されていない何かがあるのかもしれません。

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    ハマには浜を 総会 横浜市開港記念会館にて

    実行委員会 石橋です。
    NPOハマには浜をの総会が本日おこなわれました。

    さて、地元の何気ない日常が、逆に新鮮では?ということで
    新しい横浜の特派員さんからの情報です。

    ペンネームか、、、本名かを聞いていなかったので、、、、
    先行で記事から・・・この記事から・・・
    独特な切り口からの日常を個人的に楽しみにしてます。

    横浜市開港記念会館

    横浜市開港記念会館

    総会会場はかいこうきねんかいかん
    外見も渋いが 調度品はもっと渋い

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    横浜と下田と

    今から154年前の1853年にペリーが浦賀に黒船で来航しました。
    アメリカが日本へ、開国と通商を求めた来航です。
    幕府側は、一年の猶予を求め、ペリーは一時退去することとなります。

    一年後の1854年、再度ペリーが、来航します。
    約1ヶ月にわたる協議がおこなわれ、武蔵国神奈川の横浜村へ
    上陸、日米和親条約が結ばれることになります。

    その後、下田へと協議の場所が移され、和親条約の細則が
    協議され、下田条約を締結することとなります。

    ペリーは、下田を去ったのちの帰路に、現在の沖縄である琉球王国へ立ち寄り、
    正式に琉球王国とも通商条約を締結します。

    この流れから、2004年日米交流150周年を迎えています。
    横浜、下田、沖縄と何とも繋がりを感じてしまいます。

    さて、この和親条約のもと、日本初の総領事として、ハリスが
    日本へとやってくることとなります。

    幕末と言われるこの時期、日米修好通商条約締結後に実は、
    ハリスの働きかけなどにより、幕府の使節団がアメリカへ渡っ
    たりなどしています。

    幕末というと混乱期が、どうしても目立ってしまいます。

    が、先のアメリカ視察に加え、パリ博覧会への出展など、盛んに海外への
    視察がおこなわれ、書物など、たくさん日本へ持ち帰られたりします。
    このとき、アメリカは積極的に書物を提供していたりもします。
    後に、この視察団に関わった人たちが、技術、文化を勉強、吸収し、
    明治維新、近代化のへ大きな力となっています。

    アメリカに渡り、造船技術を視察した小栗忠順が江戸幕府へ進言、造ったのが
    横須賀造船所で、のちに明治政府に引き継がれ、海軍の元となっていきます。
    船といえば、坂本龍馬が取り上げられることが多く、小栗忠順は、知られることが
    少ないような気もします。(実はもっと細かい流れがありますが、、、、ざっくりと)

    また、有名どころでは、福沢諭吉ですが、アメリカへ渡った後、通訳として
    ヨーロッパへも訪れています。

    面白い写真としては、
    横浜美術館の常設展の中、幕末にフェリーチェ・ベアドが撮影した貴重な写真で、
    着物姿の遣欧使節一行がエジプトのスフインクスの前で撮影した写真があります。

    スフインクスのまわりに着物姿というとピンときませんが、
    「サムライ」が。。。いっぱい(^_^;という写真です。
    何とも、不思議です。

    機会があれば、美術館で、探してみてはどうでしょうか?

    さて、初のアメリカ総領事ハリスの粘り強い幕府との交渉の結果、
    日米修好通商条約が結ばれることとなります。

    この条約により、1859年に横浜が開港され、1860年に下田が
    閉鎖されます。
    なんとも、鎖国から開国へとむかう中での横浜と下田の不思議な
    因果を感じます。

    そして、ハリスの交渉の結果結ばれた日米修好通商条約で、開港された
    横浜が、開港150周年を迎えようとしています。

    どんな状況下でも、知ることから始めることは、大事だと思ったり
    するのでした。

    実行委員会 いしばし

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    ハマ浜新聞 創刊

    ハマ浜新聞 創刊

    ある日の理事会

    「ハマ浜の新聞を作りたい!」

    と言う意見が出ました。

    その発言の主が、ハマ浜新聞編集長 伊藤久美子さんです。
    ありがたいことに、ブログの記事をインターネットを利用されてない
    方に届ける、もっと、ハマには浜を!を知ってもらいたい!とのこと。

    年二回の発行からスタートの予定ですが、もっと発行頻度が上がる
    可能性もあります。

    うちのお店で置いてみたい!とご協力いただける方、
    まずは、新聞をお届けします!読んでいただいて、
    「!」、置いて協力!と思っていただいたらお願いします!

    お友達やまわりの方に渡したい!

    などなど、是非、メールするからお問い合わせ下さいませ!
    追って、ご返事差し上げます!

    どうぞ、よろしくお願いします!

    ハマには浜をでは、こんな活動をやって、協力したい!
    どんなところか?知りたいなどなど、みなさまの参加を
    お待ちしています。
    理事会に参加してみたい!など、お気軽にメールを。

    これを、地でいって、参加し、やってみたい!と動いたのが
    伊藤久美子編集長で、出来上がったのが、今回のハマ浜新聞です。
    どうぞ、理事会など、お気軽に!(^_^)

    【加筆】07/05/18
    理事会には、理事でない方でも参加できます。
    これまでの理事会にも、興味を持たれた方、他団体の方など参加しております。
    どうぞ、どんなことを?と思った方、お気軽に!(^_^)

    追記
    ペーパー版の全国の砂浜では、

    「全国の砂浜、、、飛び込んでみた!」

    など、楽しい持ち込み企画もお待ちしております(^_^;
    をいをい(^_^;

    近々、、、アンジェリークにて、理事会夜の部(?)というか
    開催される気配がしています(^_^;

    画像は

    伊藤久美子のブログ
    http://kiki.kumiko-ito.com
     より転載

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