横浜開港記念日
編集部 石橋です。
以前お話ししました歴史もの、足で歩くということでは
本当に頭の下がる大先輩に、お忙しいのを承知で
記事をお願いしました。
私は学者ではありませんので、これはおかしいんじゃないかなんて
ところがありましたら、編集部へ連絡下さい。
確認して間違っているところは速やかに訂正したいと思います。
まずは6月ですので横浜開港の話から始めたいと思います。
平成21年(2009)に開港150周年を迎える横浜港は、
安政5年(1858)に締結された日米修好通商条約に基き、
安政6年(1859)6月2日に開港しました。
条約締結から開港に至るまで開港場は神奈川の筈で約束が違う
と言う欧米列強各国に対し、幕府は横浜も神奈川の内であるとし、
神奈川宿付近は
①遠浅で大型船舶の停泊に適さない
②東海道に面し警備上の問題が大きい
③新たな居住地域等を確保するのが困難である
との理由をあげ、
横浜の内海の埋め立て・桟橋の建設・東海道からの連絡道路の建設を
急ピッチに進め、近在の商人たちになかば強制的に横浜関内地区へ
出店をさせ、開港場としての横浜を既成事実化しようとしました。
まぁ幕府にとっては②の警備上の問題が一番大きかったのでしょうね。
その危惧は文久2年(1862)の生麦事件などにより現実の物となります。
欧米列強各国も幕府の上げる理由も概ねそのとおりであり横浜の使い勝手が
そう悪くないこともあり、次第に不満の声は聞かれなくなったようです。
開港当時の桟橋は、運上所(税関と港湾管理を行う役所)があった現在の
県庁付近、大桟橋付近、マリンタワーの付近にありそれぞれ名前が
付けられていました。
ただ、桟橋といっても、大型船が直接接岸できる訳ではなく、沖に停泊する
大型船と桟橋の間を伝馬船が往復して荷物の上げ下ろしをする形がとられて
いました。
横浜開港資料館では
当時の荷揚げの様子がジオラマにされ常設展示されていますし、
中庭には「ペリー横浜上陸の図」の右側に描かれている「玉楠の木」が
関東大震災・第二次大戦の米軍の横浜空襲の被害から見事に復活し
青々と枝葉を茂らせている姿を見ることが出来ます。
現在は当時の桟橋を見ることは出来ませんが、
その後間もなく造られた防波堤をかねた桟橋の延長部分が大桟橋の
根元の北西側に現存していて、「象の鼻」と呼ばれて開港初期の
横浜港の姿を今に伝える数少ない遺構として大切に保存されています。
また、大桟橋入り口の開港の道のガード下
南東側の壁には明治43年当時の横浜港大桟橋付近のパノラマ写真が、
北西側の壁には明治3年当時の横浜港の中心部であった象の鼻付近の様子を
描いた浮世絵が大きく掲示してあり、当時の横浜港や象の鼻の様子を
垣間見ることが出来ます。
ところで、横浜開港記念日は6月2日ですが、
これが全く別の日になっていたかもしれないという話が伝えられています。
当時、アメリカ合衆国は日本を開港させたのは自国であるという自負が
とても強く、横浜開港の日を7月4日にするように幕府や欧州列強各国へ
強く働きかけていたというのです。
なぜ7月4日にこだわるのか?
世界史に興味がある方ならピンと来たかも知れません。
そう、1776年にアメリカ合衆国独立宣言が行われた日、
アメリカ合衆国の独立記念日、という訳です。
つまり横浜開港記念日が7月4日となれば、
将来において横浜開港記念日が祝われるたびにアメリカ合衆国が
思い出される日ともなる筈だった訳です。
しかし、当時の英国総領事オールコックを中心とする欧州列強各国が
アメリカ合衆国だけにそのような栄誉を与える筈もなく、また各国とも
一刻も早い開港を望んでいましたから、アメリカ合衆国総領事ハリスの
要請を全員一致で拒否し、流石のハリスもこれに従わざるを得なかった
ということです。
いずれにせよ、
横浜開港が日本の歴史にとって一大エポックの始まりの象徴
となったことには変わりありません。
ハマ浜特派員 南風亭馬笑
カテゴリー:ハマ浜 通信 | 投稿日:2007年06月18日 | コメント・トラックバック:0件





コメント/トラックバック
トラックバック用URL:
この記事のコメント・トラックバックRSS
コメントする