[PR] 外貨 投資 ハマには浜を! » 横浜の「ミシシッピ湾」 磯子の海

    横浜の「ミシシッピ湾」 磯子の海

    一月の何日だったか、磯子区の放火によって市場マーケットが
    焼失しました。滝頭市場は、再建を断念し、寂しいことです。
    「浜マーケット」は、類焼を逃れた店と復活を目指しています。

    私は、昭和17年(1942年)11月、横浜市中区に生まれました。
    相生町3丁目の今はマンションに変わっていますが、当時は
    関東病院(?)、平成2年までは国際親善総合病院(現在は、
    泉区西が岡に移転)で出生しました。

    その頃の住居は、中区打越にありました。 
    昭和20年5月の横浜大空襲で焼い弾による爆撃により自宅は
    焼失し、津久井に疎開をし、終戦後の9月末に磯子区岡村に
    住居を定めることになりました。

    未だ3歳の頃でした。横浜に戻ってきたときの縁側で食べた鮭の
    缶詰の味は忘れられないおいしさでした。

    在りし日の横浜 1

    昭和24年4月に横浜市立磯子小学校に入学しました。
    学校から「浜マーケット」を通過して、市電通り(国道16号線)へ
    出ると「浜」停留所で、それを越えて浜東の住民街を通り過ぎると
    磯子(根岸~屏風ヶ浦~杉田)の海です。

    在りし日の横浜 2

    根岸湾の海岸線は遠浅の砂浜のあるところで、引き潮の時は、
    潮干狩りを楽しみました。浅蜊も捕れましたが、潮吹き貝が多く、
    砂出しが難しく食用に向きにくかった思い出があります。

    冬場は、海苔そだがたち、夏には海水浴で引き潮の時は砂地で、
    満潮になると禅馬川等の河口は1.5~2.0mの水深となる自然
    の趣きがありました。

    在りし日の横浜 3

    京浜東北線の根岸線は昭和39年5月に磯子駅まで開通しましたが、
    昭和34年から建設のための埋立てが始まりました。

    鉄道を私も利用し、その便利さを享受していますが、自然を一部でも
    残すことが出来なかったのか、開発者に対して抗議を言いたい。

    あんなに全部埋立てをし、工業地帯、港湾地帯にしなくても良かった
    のではないでしょうか。

    大型船を着岸するためには、20M以上の水深が必要となりますから、
    その内海を残すことにより、砂浜を一部でも残して欲しかったと思って
    います。

    再来年(2009年)は、「横浜開港150周年」となりますが、
    江戸時代末期の黒船来航のペリー艦隊の船員が屏風ヶ浦を観て
    故郷のミシシッピ海岸にそっくりだと懐かしんだという。

    NPO「ハマには浜を」は、砂浜の再生を願っています。

    ハマには浜を 理事 根津建

    カテゴリー:ハマ浜 通信 | 投稿日:2007年08月21日 | コメント・トラックバック:0件

コメント/トラックバック

トラックバック用URL:

この記事のコメント・トラックバックRSS

コメントする

管理人にのみ公開されます

使用できるXHTMLタグ: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <code> <em> <i> <strike> <strong>