飯田理事長が、写真入りで掲載されています。
ご覧になった方もいらっしゃると思います。
インターネットでも現在見ることが出来ますが、
時間が過ぎると記事が消えてしまうそうですので、
こちらで紹介させて頂きます。
——————————-

—– 以下、東京新聞の記事の内容になります ————
ハマには浜だ!
NPO理事長飯田繁男さん 『横浜を元気にする』
「浜辺は海と陸のゆらぎの場所。あれこれ区別しすぎる最近の風潮も浜がそばにないから」
と話す飯田繁男さん
文明開化の昔から、横浜といえば「ミナト」のイメージが強い。
だが、かつて海水浴や潮干狩りを楽しむ砂浜もあった。
この浜辺を取り戻したいと願う一団がいる。“ハマっ子”の記憶が絶えないうちに、
と夢見る「ハマ」の姿とは。
「ハマなのに、浜辺がないのはなぜだ?」
横浜を拠点とするオートバイクラブ「ケンタウロス」を主宰する
飯田繁男さん(64)が、ふとつぶやいた。
五年前。神奈川県葉山町の長者ケ崎の砂浜で、仲間たちと月見の
宴会をしていたときのことだ。二十年近く毎月続けたツーリングだが、
葉山までの道のりに「くたびれたよな」と弱気になっていた。
「近場で月見をしたいと思ったときに、横浜に手ごろな砂浜がないことに気づいた」
と振り返る。
特定非営利活動法人(NPO法人)「ハマには浜を!」の発端だ。
飯田さんの呼びかけに、古くからの友人の映画監督林海象さんや、
女優の余貴美子さんなど百八十人が集まり、二〇〇四年六月に発足。
一九五〇年代の潮干狩りの様子などを振り返る写真展などを開き、
砂浜再生を呼びかけてきた。
横浜市の海岸線は約百五十四キロもあるというが、うち砂浜はわずか一キロ。
一九八〇年にオープンした金沢区の人工海浜だけだ。
だが、昭和初期には本牧から金沢にかけて十数カ所の海水浴場があった。
七〇年代までに埋め立てでそのすべてが失われ、
浜辺があったことは過去に忘れ去られようとしていた。
「ハマ造ろうぜ」という飯田さんの思いつきに、若い仲間たちの反応は冷めていた。
「オレにとっての横浜は港です」。あるいは「誰がお金を出すんですか」。
だが、浜辺の思い出がある五十代以上の人々は目を輝かせる。
「若いやつらの横浜は岸壁かもしれないが、その母親にとっての海は、砂浜なんだよ」
飯田さんも、中学生のころまで磯子や本牧の遠浅の海で遊んだ一人だ。
「友人と学校をサボって。ポケットにウイスキーを忍ばせてね」
とにやりと笑う。
横浜は幕末の一八五九年の開港以来、海を埋め立てて発展してきた。
飯田さんは
「経済優先の社会は、土地の小さな記憶を軽んじてきた」
と指摘する。
貨物船や客船がひっきりなしに往復する横浜港で砂浜再生は突拍子もない
「夢物語」に見えるかもしれない。
だが、飯田さんらは
「ハマを元気にする夢だ」
と力を込める。
海水浴の思い出を喜々として語る古老たちの表情に
「浜辺について語る場所が必要」
と思いを新たにする。
数年前にスペイン・バルセロナを訪れたとき、港に数百メートルの
砂浜が点在していた光景も、“ハマ浜”の構想を勇気づける。
「バルセロナ五輪のとき港に造った人工浜らしい。
市民が欲しいと思ったら、みなとみらい21地区や山下公園に、
砂浜を造るのは不可能ではない」
人工海浜についての勉強会も重ね、横浜市の人口に相当する約三百六十万人の
市民が千円ずつ出し合うと約三百五十メートルの砂浜ができるとはじき出した。
飯田さんは
「すぐにできるなんて思っちゃいない」
と繰り返す。
「市民が欲しがらないものを行政が勝手に造ってはいけないしね。
何十年かかっても『やっぱり浜辺が欲しい』という思いが積み重なればいい」。
砂浜に見る夢は、一人一人の思い出を置き去りにしないハマの姿だ。
文・中山洋子
コメント (1)