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    象の鼻 タマちゃんの定点観測日記 その9

    象の鼻を望む クレーンが無くなりました

    象の鼻地区を陸側から見た景色。

    あの53年間あった5トン、クレーンがこの7月に無くなりました。

    映画や写真を引き立てた象徴でした。

    大桟橋 在りし日の猫のお母さん

    そして24年大桟橋や象の鼻を、見守って生きた猫の母さんも、
    この7月に亡くなりました。
    この辺りがゆっくりと変わっていくことを日々感じます。

    編集部注
    猫のお母さんは、大桟橋入り口で愛されていた猫さんです。
    7月7日の七夕の日に、眠るように息を引き取ったそうです。
    クレーンは何処へ行ったのでしょう・・・・

    在りし日の大桟橋そば、象の鼻のクレーン
    象の鼻のクレーン

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    カブトガニと三郎島 岡山県浅口市

    三郎島 その2

    今回、空き時間を利用して岡山県の海岸を奔ってみました。
    広島県福山市から東に20数kmの海岸線にこの浜辺はあります。

    編集部注
    浅口市観光情報:寄島エリア観光情報 ホームページ

    三郎島 その1

    カブトガニをテーマにした博物館にはその生態系が
    詳しく展示されており生きたカブトガニを見ることも
    できるのです。

    三郎島 その3

    そこからさらに東に進むと瀬戸内海国立公園に
    指定されている寄島にたどり着き、その南端に
    三郎島があります。

    —-
    かつて神功皇后が三韓征伐からご帰還のおり、
    備中沖の美しい島にお寄りになられます。
    これが寄島の名前の由来です。

    ただ寄島は、現在、岡山県の干拓事業によって
    本州と完全に一体となっており、言われないと
    かつて島だったということは簡単にはわかりません。

    三郎島 その4

    また本州部を含めた町全体を寄島町というようになって
    紛らわしくなったため、かつて島であった元々の寄島区域は、
    近くにある小島の名前をもらって三郎島と呼ばれるようになりました。

    その名前を持っていかれた小島の姿は少し変わっています。

    この島は潮が満ちている時は3つの島に見えますが、潮が引いてくると、
    1つの島になります。そして更に潮が引くと寄島(現在の三郎島)と
    陸続きになって歩いて渡ることができます。

    その形からか、三ツ山とも三郎島とも呼ばれてきましたが、寄島に名前を
    持っていかれた関係で、今は三ツ山が正式な名前のようです。

    三ツ山のそれぞれの山は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇のお姿だと
    言い伝えられており、そのため古くから地元の方に畏れ敬われて
    きたということです。(観光案内より)

    三郎島 その6

    この島の東側に長さ900mの自然の砂浜があり、
    釣りやキャンプ、海水浴などができます。

    三郎島 その5

    また、この海岸線一帯では昔から潮干狩りが盛んに
    おこなわれており、砂浜に打ち上げられた大量の
    貝殻が貝の豊富さを物語っているようです。

    ハマ浜特派員 三東寛

    参考URL
    おかやまの自然百選
    浅口市:寄島園地・三郎島(ヨリシマエンチ・サブロウジマ)

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    ハマっ子の輪 その2 佐伯輝子さん

    2007年7月18日 横浜 寿町勤労者福祉協会診療所にて

    青木雨彦さんの奥様からの紹介で、「女赤ひげ先生」として
    書籍も多く出版されている佐伯輝子先生のお話を聞く機会を得て
    伊藤編集長と寿町を訪れました。

    佐伯輝子先生は、横浜の通称「寿ドヤ街」と呼ばれる街の
    寿町勤労者福祉協会診療所にて、28年という長きにわたり
    お医者様として患者と接してこられている方です。

    なぜハマには浜をが?

    と感じる方もいるでしょう。
    ハマっ子のお話を聞き、再生していく砂浜と、これからを感じ、
    考えることが出来ればということもあります。

    寿町、ハマ浜、、、そんなに外れた話でもありません。

    横浜市の中心部が一面海であった江戸時代の寛文7年
    (1667年)江戸の豪商、吉田勘兵衛が9年余りの歳月を
    かけて埋め立て工事をおこなっています。

    これが、「吉田新田」と命名された地域となり、
    勘兵衛の子孫である北の吉田家と南の吉田家が
    代々、この土地を支配していきます。

    時が流れて、明治3年、南の吉田家の土地の東はずれにあった
    「南の一つ目の沼」の埋め立て工事が始まります。

    この埋め立て地が、南側から

    松影、寿、扇、不老、万代、蓬来

    と町名がつけられ、埋地7ケ町となります。
    寿町は、埋め立て地なのでした。

    さて、本題かららずれていますので。。。

    佐伯輝子先生 

    佐伯輝子先生は、昭和4年生まれ、、、
    ばりばりの現役のお医者様です。

    戦後すぐの昭和22年に東京女子厚生専門学校に入学され、卒業後
    東邦大学理学部2年へ編入、昭和28年に同大学の医学部へ入学され、
    昭和32年卒業されていらっしゃいます。

    横浜の埋め立て地区のアメリカ軍からの接収が解除された年
    である昭和32年にお医者様として歩み出したとは何とも不思
    議な感じがします。

    その接収解除と共に横浜公共職業安定所と柳橋労働出張所が
    寿町に移転し、通称「寿ドヤ街」と呼ばれる街が形成されていく
    事となっていきますが、またまた不思議な感じです。

    先生のお話を聞いていて

    「私たちは、両親や前の世代から、次の世代へと繋がる
     大きな川の流れの中に生きているようなものでしょ?
     同じ時代を共に生きている。」

    という話がありまた。

    「人間同士のつきあい」が大切

     ・怒る
     ・正直
     ・ストレスは残さない

    というキーワードが佐伯先生のお話に見えてきました。
    怒るというのは、感情にまかせて怒ることではなく
    その人のことを思い、その人のために、怒るということです。

    「また、お酒を飲んで!駄目でしょ!」

    と本当に心配して怒るというのが、、、、
    わかりやすいでしょうか。

    そういう考えからか、

    検診では、医者と患者という接し方より、相談に来たと考え、
    接するそうです。体なのか心なのか、、、その正直な生き方の
    経験が、患者さんをゆっくりと診ていくのでしょう。

    患者さんとともに、患者さんが自分を知る手助けを、そして
    不安を取り除き、不安とのつきあい方を、ともに見極めていこうとする
    お医者さまとしての姿勢を感じました。

    そして、先生が大事になさっていることが「家族」だそうです。
    なんと、女医さんが寿ドヤ街と呼ばれる地で診療を引き受ける
    最後の一押しは、ご長男の薦めが大きかったとのこと・・・「家族」です。

    きっと、佐伯先生はご苦労を人の何倍もなさったのでしょう。
    戦争中に青春時代を過ごされ、戦後の大変な世の中、大学で勉強され
    そして、お医者様となられたわけです。

    当然、男女差別も当たり前の世の中だったのですから、そういった
    ご苦労も多かったと考えます。
    そのご経験があるから、とても素敵な笑顔で、

    「ストレスなんか溜めないわよ!正直にどんどん言うし、怒るから」

    と言えるのだと思います。
    それはもう、男女を越えて、世代を超えた、とても大きな
    やさしさと強さを感じる瞬間でした。

    でも、人知れず、きっといろいろと考えさせられていることでしょう。
    そして、
    「家族」みなが支え合ってるので、素敵な笑顔でいられるのでしょう。

    先の青木家といい、、、家族というのは大きな力だと改めて
    感じるのでした。

    「人間同士のつきあい」が大切、大きな川の流れの中で生きているようなもの

    同じ時代を生きている皆様と、昭和に大きく変貌を遂げた横浜港を
    これからどういった形で、次の世代につなげていくか?そういうことを
    改めて、先生のお話を聞いていて感じました。

    編集部 いしばし

    追記
    先生の笑顔は、とても素敵で、何よりも、生きていく姿勢が正直で
    とても謙虚でありました。
    文字にすると当たり前の、正直、謙虚ですが、当たり前のものは難しく、
    特に、これほど難しいことはないよな、、、と感じたのでした。

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    みなとみらい線の車内吊り広告です。  ハマのタマちゃん横浜散歩

    横浜花火大会 みなとみらい線の車内吊り広告

    花火大会のお知らせも今風になってしまいました。

    ハマのタマちゃん記

    編集部 いしばしより追記

    ぼ~としていたら花火大会が終わって・・・
    というか、台風で中止になってしまいました。
    アップが遅くなり申し訳ありません・・・

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    ハマには浜を! あなたは潮騒をどう感じますか?

    編集部の石橋です。
    先日、理事長と話をしている中で

    潮騒

    は、いったい耳の聞こえない方には
    どう感じ取れているのだろう?

    と話したことから、新しい特派員の方
    から、記事を頂きました。

    ----

    イシザワ・トシユキと申します。ろうあです。

    飯田理事長より、目の見えない小学生が撮った写真の
    説明に僕は聴くとあった。

    イシザワさんは、浜、なぎさ、潮騒、波をどう感じるだろうか!

    ----

    編集部注
    飯田理事長のイシザワさんへの問いかけに
    早速、特派員として投稿いただきました。
    理事長の問いかけにある小学生の撮った写真というのは
    現在開催中の下記、写真展のことになります。
    どうぞ、機会を作って写真展の方もご覧いただけますと
    楽しいことが始まりますよ!(^_^)

    では、投稿を!お愉しみ下さいませ。

    写真展 Kids Photographers 子どもは天才

    ◇日時:2007年7月3日(火)~ 8月26日(日)
    ◇開館時間 午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
    ◇休館日:月曜日(月曜日が祝日・振替休日の場合は次の平日)
    ◇会場:日本新聞博物館 2階・無料ゾーン(入場無料)

    横浜市中区日本大通11
     横浜情報文化センター
     TEL045-661-2040
     FAX045-661-2029
    http://www.pressnet.or.jp/newspark/
    e-mail:kidsphoto@newspark.or.jp

    以下、投稿いただきました記事です。

    ハマには浜を!

    眩しい太陽、
    蒼い空に白い雲、
    碧い海に白い砂浜、

    そこからやってくる風。

    その艶やかなカラーが目や脳裏に焼き付いてゆく。。

    そして、その風景に緊張から解放され、こころを癒してゆく。

    音のないボクは、目を閉じたらどうだろう。
    太陽の照り、温度、におい、風、砂浜の感触しか感じない。
    ボクは生まれた時から、音を消したまま。

    でも、聴こえる。

    自然、風、海、波、砂、街などのすべての音は、
    身体で聴いている(感じ取る)。
    聴こえ方(感じ方)は、人いろいろ。

    だから、海辺の砂浜は、全世界人類の癒し場所である。

    ハマ浜通信特派員 イシザワ・トシユキ記

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    人生を楽しむ達人たち 青木雨彦さんとハマっ子たち

    人生を楽しみなさい。
     楽しむことを学びなさい。
      人生を楽しみましょう。

    でも、どうやって楽しむかがわからなかったら
    誰かに学びましょう。
    達人は世の中にはいっぱいいるようだからね。

    もう随分と昔に理事長とお話ししている中で出た話です。

    2007年7月6日

    「三日住めばハマっ子」

    というハマ浜新聞の記事から、その言葉を残した
    故青木雨彦さんのお宅へお邪魔することとなりました。

    いい人生は、人とのいい巡り会いから生まれる

    と、何かで読んだことがあります。

    人との巡り会いは、やはり何か自ら動いたときに、
    波紋のように広がっていくのかな?と思ったりしました。
    この小さな偶然から繋がったハマっ子の繋がりに胸躍ります。

    とても気さくな奥様で、雨彦氏のことを話していただく
    その空間は、生前の素敵な青木家が目に浮かぶようでした。

    西洋、といっても、キリスト教で不吉とされ、13日の金曜日は
    何もしないと聞いた。だったら、僕らは呑んで騒ごう!という
    雨彦氏も参加していた13日の金曜日の会というものがあるそうです。

    もう随分長い間続いている会だそうですが、奥様の話ですと、
    第一回はなぜか?鎌倉の由比ヶ浜へ出向いたようです。
    なぜ、人は海へむかうのでしょうか?(^_^;

    平成3年、58才の雨彦氏は、胃ガンのために他界されます。
    人としても、作家としても脂がのって、これからという
    時期ではないでしょうか・・・

    それから、8年後の13日の金曜日の会に、

    「もうそろそろいいでしょう?(^_^)」

    と、奥様に、会の方から声がかかり、その会に参加されたそうです。
    今まで、雨彦氏が他界し、参加できない雨彦さんが可哀想だからと
    奥様は、参加を見合わせていたそうです。

    雨彦さんのことを思い参加を見合わせた奥様、そして
    奥様に「そろそろと。。。」と流れる時を待ってから声をかける会の方、、、
    とても素敵なそれぞれの関係だなぁ、、、と思いました。

    ともすると、自分の感情や都合などなど、今の世の中
    どんどんと押していかなければ、、、となるところを
    それぞれの思いやりが、交差するような感じを受けました。

    どうやら、人生を楽しみ過ごした青木雨彦さんの
    まわりには、とても素敵なハマっ子たちがいっぱい
    集まっていたようです。

    だから、一緒に楽しもう!という空気があり、垣根を越え
    何でも取り込んでしまうような所から

    「三日住めばハマっ子」

    なんて、洒落た言葉が生まれたのかもしれません。
    たくさんたくさん書きたいことがありますが、、、
    そろそろこの辺で・・・

    今も青木家を取り囲む人たちには、
    冒頭の理事長の話の「達人」が沢山いらっしゃるようです!
    いろいろなことを学びたいと思うのでした。

    ハマっ子繋がりの達人の方々と

    「横浜に砂浜」

    さて?どう楽しみましょうか?と(^_^)
    お話をしてみたいと思いました。

    この場を借りて、お声をおかけしていただきお宅へ
    お邪魔させていただきましたことを青木家の方々、
    そして、巡り合わせていただきましたことを
    青木雨彦さんへ感謝いたします。

    ありがとうございます。

    編集部 石橋

    追記)

    さて、、、、

    「雨」

    本格的な作家活動をなさる前に、アルバイトでものを書いた際に、
    そうペンネームを入れていたそうです。
    そこから、本名の福雄ではなく、雨彦という名前が生まれたと。

    「雨」

    雨彦さんは、雨に何を思ったのかなぁ、、、、

    また、奥様とお話しするときに聞いてみたいと思いました。

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    青木雨彦さん宅訪問 2

    7月6日(金)

    ハマ浜新聞に記事を書いた石橋さんと青木雨彦さん宅を再度訪問した。

    いつもにこやかにお話し
    くださる奥様の洋子さん。

    週刊朝日に毎週2ページにわたり連載していて雨彦さんだが 42歳まで新聞記者だったそうだ。
    その後旺文社から発行の「蛍雪時代」の編集長を経ての作家活動だった。

    〈男のロマン〉
    13日の金曜日は年3回あるその日は縁起が悪いのでお酒を飲む。粋な面白い発想ね~奥様は追想する。
    「三日住めばハマッ子」
    そんなところから
    生まれてきた言葉ではないか?
    さらりとした付き合いが好きな横浜の人達。

    〈遊学校〉
    作家仲間での会は今でも続く偉大な会合としてあるという、その仲間。
    保土ヶ谷にある佐伯医院の女医さんに奥様自ら電話をしてくださる、

    その女医さん。
    寿町に無料で診察をしているという立派なかた。

    是非お会いしてお話を聞きたい!
    ハマ浜から続く。。人の輪まさに
    「三日住めばハマッコ」

    ハマ浜新聞 編集長 伊藤久美子

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    象の鼻 タマちゃんの定点観測日記 その8

    象の鼻 定点観測 2007/07/03

    だいぶ、進んで来ました。

    東西倉庫左手側も平らになり、護岸が造られています。

    ハマのタマちゃん記

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    横浜飛天双◯能 横浜三時空 with ハマには浜を

    第11回 横浜飛天双◯能 横浜三時空 07/09/08

    編集部 石橋です。

    NPO法人ケンタウロスが横浜で能を開催して、今回11回目を迎えます。
    NPO法人ハマには浜をは、今回、共催という形でご協力させて
    いただいています。

    なぜ?

    そう思う方も少なくはないのかもしれません。
    ハマ浜ブログの方でも、このあたりを少しずつ取り上げていきたいと
    考えています。

    主催者挨拶を以下に引用させていただきます。
    その中にも、なぜ?ハマには浜をが?という疑問をお持ちの方々が
    なるほど!と感じる、そういうものが含まれています。

    どうぞ、今まで能を見たことがない方、興味がある方、愛する横浜を
    題材にした横浜能楽堂で開催される、はまっ子たちが開催、創作に
    協力した「お能」を愉しんでみてはいかがでしょうか?

    横浜飛天双◯能ホームページ
    http://www.yokohama-noh.com/

    今様能 横浜三時空特設サイト
    http://sanjiku.yokohama-noh.com/

    以下 主催者挨拶文 引用となります。

    謹啓

    深緑の侯、時下ますますご清祥の段、お慶び申し上げます。

    平素は横浜飛天双◯能に格別のご高配を賜り、厚くお礼申し上げます。

     お陰様で、ついに、横浜の能が誕生しました。

    『横浜三時空』と遺されております。
    横浜の過去・現在、そして未来の時空を旅する愛の物語です。
    第十一回横浜飛天双◯能で上演いたします。

     さて、「横浜三時空」の制作過程は、専門家だけで
    つくっていく従来の作り方と異なっています。
    まず初めに、横浜の能の物語の種を一般に公募したのです。

    一方では、免疫学者であり、新作能詞章制作者でもある
    多田富雄先生に、その様を元に能の詞章に仕上げて欲しいと
    お願いしたのです。

     先生には、不自由な身体を押して『横浜三時空』の制作に取り組んで
    頂きました。その書き上がった詞章に、観世流鐵仙会シテ方の清水寛二氏が
    謡の節を付けられました。

    現在は、「横浜三時空」の謡い本が能役者の皆さんに手渡され、
    内容の吟味をしながら、稽古を重ねております。

     ですから、この作品は誕生以前に、専門家だけでなく、多くの
    横浜を愛する人々・素人衆に助けられているのです。

    これは、まさに横浜の能・濱っ子能と云えるのではないかと自負しております。

     閑話休題。開港150年記念の祝気分で盛り上がっている横浜昨今ですが、
    150年よりもっと前、遠い昔から、この地には人々の生活があったはずです。
    現在の横浜の発展は、開港という大きな出来事が基点であることは疑問の余地が
    無いことです。

    しかし、その時点から総てが始まったかのように、横浜の歴史を150年間に
    集約して済まし、過去の時間に無頓着であって良いのでしょうか。

    歴史意識の分断によって、日常の生活の中での意識まで分断されると
    いうことがあるのではないでしょうか。

     私は、海岸線に近い地域と、海からわりと距離のある地域との
    「横浜意識」の分断があるように感じるときがあるのです。

    とりもなおさず、歴史はつながっており、土地も、そこに流れる川、
    たどり着く海、そこに暮らす生き物も、もちろん空気もつながっているのです。

    そのことをに気付かされた
    [GREAT YOKOHAMA]という地図もあります。
    (このことについては、公演当日配布パンフレットにて)

     今回の『横浜飛天双◯能』は時空の旅だけでなく、
    浜と陸の物語でもあります。(チラシ参照)

    どうぞ横浜能楽堂で、

    『過去・現在・未来』そして[GREAT YOKOHAMA]の世界を遊んで下さい。

                                    謹白
    平成十九年六月吉日
             横浜飛天双◯能実行委員会 主催者 飯田繁男(修永)

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    横浜開港記念日

    編集部 石橋です。

    以前お話ししました歴史もの、足で歩くということでは
    本当に頭の下がる大先輩に、お忙しいのを承知で
    記事をお願いしました。

    私は学者ではありませんので、これはおかしいんじゃないかなんて
    ところがありましたら、編集部へ連絡下さい。
    確認して間違っているところは速やかに訂正したいと思います。

    とのことで、早速記事を頂きましたのでご紹介します。

    開港150周年の垂れ幕

    まずは6月ですので横浜開港の話から始めたいと思います。

    開港記念広場の日米和親条約の記念碑

    平成21年(2009)に開港150周年を迎える横浜港は、
    安政5年(1858)に締結された日米修好通商条約に基き、
    安政6年(1859)6月2日に開港しました。

    条約締結から開港に至るまで開港場は神奈川の筈で約束が違う
    と言う欧米列強各国に対し、幕府は横浜も神奈川の内であるとし、
    神奈川宿付近は

    ①遠浅で大型船舶の停泊に適さない
    ②東海道に面し警備上の問題が大きい
    ③新たな居住地域等を確保するのが困難である

    との理由をあげ、

    横浜の内海の埋め立て・桟橋の建設・東海道からの連絡道路の建設を
    急ピッチに進め、近在の商人たちになかば強制的に横浜関内地区へ
    出店をさせ、開港場としての横浜を既成事実化しようとしました。

    まぁ幕府にとっては②の警備上の問題が一番大きかったのでしょうね。

    その危惧は文久2年(1862)の生麦事件などにより現実の物となります。
    欧米列強各国も幕府の上げる理由も概ねそのとおりであり横浜の使い勝手が
    そう悪くないこともあり、次第に不満の声は聞かれなくなったようです。

    開港当時の桟橋は、運上所(税関と港湾管理を行う役所)があった現在の
    県庁付近、大桟橋付近、マリンタワーの付近にありそれぞれ名前が
    付けられていました。

    ただ、桟橋といっても、大型船が直接接岸できる訳ではなく、沖に停泊する
    大型船と桟橋の間を伝馬船が往復して荷物の上げ下ろしをする形がとられて
    いました。

    横浜開港資料館では

    当時の荷揚げの様子がジオラマにされ常設展示されていますし、
    中庭には「ペリー横浜上陸の図」の右側に描かれている「玉楠の木」が
    関東大震災・第二次大戦の米軍の横浜空襲の被害から見事に復活し
    青々と枝葉を茂らせている姿を見ることが出来ます。

    現在は当時の桟橋を見ることは出来ませんが、

    象の鼻

    その後間もなく造られた防波堤をかねた桟橋の延長部分が大桟橋の
    根元の北西側に現存していて、「象の鼻」と呼ばれて開港初期の
    横浜港の姿を今に伝える数少ない遺構として大切に保存されています。

    また、大桟橋入り口の開港の道のガード下

    南東側の壁には明治43年当時の横浜港大桟橋付近のパノラマ写真が、
    北西側の壁には明治3年当時の横浜港の中心部であった象の鼻付近の様子を
    描いた浮世絵が大きく掲示してあり、当時の横浜港や象の鼻の様子を
    垣間見ることが出来ます。
    ところで、横浜開港記念日は6月2日ですが、

    これが全く別の日になっていたかもしれないという話が伝えられています。
    当時、アメリカ合衆国は日本を開港させたのは自国であるという自負が
    とても強く、横浜開港の日を7月4日にするように幕府や欧州列強各国へ
    強く働きかけていたというのです。

    なぜ7月4日にこだわるのか?

    世界史に興味がある方ならピンと来たかも知れません。
    そう、1776年にアメリカ合衆国独立宣言が行われた日、
    アメリカ合衆国の独立記念日、という訳です。
    つまり横浜開港記念日が7月4日となれば、
    将来において横浜開港記念日が祝われるたびにアメリカ合衆国が
    思い出される日ともなる筈だった訳です。

    しかし、当時の英国総領事オールコックを中心とする欧州列強各国が
    アメリカ合衆国だけにそのような栄誉を与える筈もなく、また各国とも
    一刻も早い開港を望んでいましたから、アメリカ合衆国総領事ハリスの
    要請を全員一致で拒否し、流石のハリスもこれに従わざるを得なかった
    ということです。

    いずれにせよ、
    横浜開港が日本の歴史にとって一大エポックの始まりの象徴
    となったことには変わりありません。

    ハマ浜特派員 南風亭馬笑

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